Mancala, the national game of Africa (マンカラ、アフリカの国民的遊戯)

著者

Stewart Culin

翻訳

神楽坂あんのん

底本

Coachwhip Publication社版 (ISBN978-1-61646-073-0)

Note
図版の写真や絵についてはサイズが大きく、また著作権が不明だったので原著論文を参照してください。

マンカラ、アフリカの国民的遊戯

遊戯の比較研究は、文化史においての重要な貢献になる兆しがある。遊戯の地球上への普及に関わる疑問は、民族学者をまごつかせる大変重大なものだ。その起源は人類の幼年期というべき書かれていない歴史の中にある。マンカラはその特異な分布から特筆すべき遊戯である。というのも、この遊戯はアラブ文化圏に限られていて、世界の居住領域のほぼ半分の人間を長い間楽しませてきたあと、我々の大陸にちょうど浸透してきたのだ。

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ニューヨークのワシントン通りにある小規模なシリア系コロニーを訪れた訪問者は、2人の人間がこのゲームをしているところをよく目にするだろう。彼らはこれをマンカラと呼んでいる。その道具は2列にくり抜かれたうつわ状のくぼみが並ぶ盤と、たくさんの小石や貝殻である。この小石をある穴からより早く移すのである。ダマスカスの若者が私に遊び方を説明してくれた。主に2つの遊び方があり、ゲームの始まりに石を配るやり方による。2人が常に参加し、98個のタカラガイの貝殻(wada)あるいは小石(hajdar)が使われる。ゲームの一つはLa’b madjnuniあるいは「おかしなゲーム」と呼ばれている。プレイヤーはそれぞれ盤面の長辺方向を向かい合わせに座る。ある一人が14のbute(『家』)と呼ぶ穴にある石を配っていく。この時2個より少ない石がある穴がないようにする。その後、このプレイヤーは自身の側の列の一番右端の穴、図1でいうGでel ras (『頭』)と呼ばれるところから全ての石をとり、一つずつ相手の側の穴にa, b, cといった順に入れていく。もし相手側の穴全てに石を入れても余りがあったら、今度は自分の列のA, B, Cといったように入れていく。最後の石を入れたとき、それを入れた穴から全ての石を取り出して、先程の要領でまた配っていく。これを次の2つのうちのどちらかが起きるまで続ける—​最後の石が空の穴に入ったとき、このプレイヤーの手番は終わって相手の番になる。また、最後の石が、石が1つか3つ入った穴に入ったとき、これらは合計2つあるいは4つの石となるわけだが、このときプレイヤーはこの2つか4つの石を、向かい側にある相手の穴にある石と一緒に取ってしまう。もしこのとき、その隣の穴も、他の数を持つ穴が間にあるわけでなく2つか4つの石を持つ穴になっていたなら、プレイヤーはそれも相手の石とともに取ることができる。次のプレイヤーは穴gから石を取り、それをA, B, Cといったように配っていく。もし頭の穴が空なら、プレイヤーは自身の列の次に一番近い穴から石を取る。盤面から石がなくなったら、お互い相手が持っている石の数を数え、自らの取り分とする。このゲームは何のスキルも必要ないし特に役にも立たないが、結果は数学的な確実性があり、最初に石が配布される方法による。La’b hakimi (『分割ゲーム』)あるいはLa’b akila (『知能ゲーム』)と呼ばれるものは、先述のものと全く異なるものだ。プレイヤーの能力が勝利を大きく左右する。このゲームは、シリアの慣習ではそれぞれの穴に7つ石を入れる。プレイヤーは一番右の穴から最初に取る代わりに、自分の側の好きな穴を選んで始めることができる。最後の石が入る穴がどこか考えるので、結果はその計算に大きく依存することになる。La’b rosëyaは最初のゲームの変種で、子供にだけ遊ばれている。7つのタカラガイをそれぞれの穴に入れるので、先手が常に勝利する。私のシリア人の友人が言うには、ゲームで使われる貝殻は紅海の海岸から持ってきたものだという。マンカラはシリアのカフェでは一般的なゲームだ。子供はこのゲームをよくするし、盤がないときは地面に穴を空ける。道具は道すがら出会った旅人に頼ることもある。

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ペンシルバニア大学考古学博物館にあるエルサレムのマンカラ盤を図2に示す。また、シリアからのものを図版2の図1に示す。

マンカラという名前はシリア人がこのゲームに与えたもので普通のアラビア語であり、「移動のゲーム」という意味と関連している。クルアーンにはこのゲームについて言及はないが、中世のアラブ世界ではすでに知られていたに違いない。というのも、Kitab al Aghani (『歌の書』)の注釈には「マンカラのようなゲーム」とあるからだ。

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トーマス・ハイド博士は200年前の論文 「De Ludis Orientalibus」 [Hyde] (図3を参照)でとても良い記述を残している。また、レインの「中期エジプト人の習慣風俗」では、カイロで12個の穴を持った盤で、私が言及したのとよく似た方法で遊んでいることを詳細に記載している。72個の貝殻あるいは小石がそこでは使われていて、両者を特に区別することなくhasaと呼んでいる。盤にある半球状の穴はbuyootというbeytの複数形で呼ばれている。ゲームの得点は60点で、プレイヤーが続けて獲得した石の量がそれに達すると勝ったことになる。私はすぐに、シリア人の知人からは記録にないものは何も学んでいなかったことに気づいた。しかし、シカゴ万国博覧会のトルコ村にあるダマスカスの家を訪問したとき、そのシリア人とこのゲームに触れる機会を得て、世界的にみたときのゲームの奇妙な分布を印象深く感じた。セイロンの展示会ではモルディブから16個の穴が2列に並んで、両端に大きい窪みがある盤があった(図4と5)。ここでは、このゲームはNaranjと呼ばれている。同じくセイロンの展示会にあった盤は14個の穴があり、さらに中央に2つの大きな空洞があった(図6)。これはChankaと呼ばれている。あるインド人の男性が教えてくれたところによると、このゲームはボンベイでも一般的だという。ジョホールのスルタン [1] はChongkakという16個の穴を持つ船型の盤を展示していた(図7)。私はこのゲームがフィリピン諸島のジャワでも普通であることも学んだ。16個の穴を持つ船型のものがここでも使われているのだ(図版2、図2)。このゲームはChungcajonという。このゲームはフィリピン諸島をみる限り、アジアの沿岸全体に広がっているのは明らかだろう。マンカラやチェッカーの類は、アフリカ西海岸のベナンにあるフランス植民地、万国博覧会でのダホメ村の黒人の人気の娯楽だった。彼らは船型で12の穴を持つ2列の盤で遊んでいて、これはadjitoと言い、石と一緒だとadji、ゲームそのものはMadjiと呼ばれている。マンカラゲームが最も詳しく同定されているのがアフリカ大陸のものだ。いわば、マンカラはアフリカの国民的遊戯と言えるかもしれない。シカゴ博覧会のリベリアの展示では11を下らない数の盤があり、しかも3種類の異なる形の盤で、Deys、Veys、Pesseh、Gedibo、Queahなどと呼ばれていた(図8、9、10)。それらはPooという名前で括られていて、これはリベリア市民によく知られているゲームだ。実際このゲームはアフリカの民族なら東西南北問わず分布している。ヌビアでは16個の穴を持つボードが使われており、Mungalaと言われている。

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アルバレズによるアビシニアへのポルトガル大使館の報告(1520-1527) [Alvarez] には"Mancal"が謎のゲームで、ドン・マニュエルの治世には時代遅れのものとして言及されている。ベントは最近アビシニアに現存するGabattaというゲームについて記述している(図11)。 [2] ジョージ・シュヴァインフルト博士によれば、これはニャムニャム族 [3] により遊ばれていて、ガゼル地区全体の全ての人にもよく遊ばれているが、モンブットー族には知られていないかもしれないということだった [Schweinfurth]。 ニャムニャム族はマンカラ盤を-これは16個の穴と端に貝殻の石を入れるための2つの穴を持つが-Abangahと呼び(図12)、ボンゴ族 [4] はこの盤をToeeと言う。セネガルのぺウルス族、フーラー族、トローフ族、マンディンゴ族も、この遊戯に彼らの時間の大部分を費やすことを彼は発見したという。ロルフはこれをチャドとべヌエ [5] の間にいるカジェ族でも見出した [AndreeB]。 これはビアフレン族やキンブンダ族でも起こる。ヘリ・シャトレインはしばらくアンゴラに滞在していたが、彼は私にMbauというゲームを紹介してくれ、それはポーターの停車場となっている駅で岩から切り出した穴で行われていたという。盤は彼がエルミナ [6] で収集し、今はワシントンのアメリカ国立博物館にある。2列12個の穴を持ち、端に大きな穴がある(図版3)。

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このゲームは、ガボンのファン族 [7] にはKale [8] と呼ばれており、数え上げには豆のような種が使われている。 (図13および図版4、図1) アメリカ国立博物館のその他の盤、冒険旅行家のW. L. アボット博士がキリマンジャロのチャガ族 [9] から集めたものは、4列に各6つの穴と両端に2つの大きな穴の26個の穴を持つ。 (図版4、図2) 彼はこれを、スミソニアン研究所から出版された自身のカタログにて、Òchiという名前で、Bauというアフリカ全体で一般的なゲームを遊ぶためのものと述べている。さらに、これはニッカーナッツ [10] や小石を使って遊んでいるという。ベントは、著書 「マショナランドの廃墟都市」 [Bent] で次のようにゲームの説明をしている。「巨木が彼らの村に向かう入り口を囲っており、その下で男たちがIsafubaという、地面に16個の穴が列をなす、マカランガ族の謎めいたゲームをしている。10人がこのゲームを遊ぶことができて、石やら陶片やらを訳のわからない順序で一方から一方の穴に撒いていく。我々はこの国に滞在中これを何十回と見て、毎回理解できないと諦めてきたが、どうやら昔ここにいた文明人種から彼らが学んだチェスやチェッカーのようなものだという結論に達した。」彼はさらにIsafubaはアフリカ西海岸で遊ばれるWariと同じものであると続けた。

ヴェイ族 [11]の王の息子であるモモル・マサコイ王子は、ヴェイに伝わるゲームの遊び方について私に教えてくれた。彼らはそれをKpoという、木琴の音に似た破裂音を持つ言葉で呼ぶ。これは、ゲームの時に種や象牙の玉を盤に放り込む時に出す音に似ていることから来ている。盤は2列に計12個の穴をもち、さらに大きい穴が盤の端にあり、それぞれ同じ言葉で呼ばれている。酋長が使用するような盤はしばしばとても高額で、象牙でできていたり金で装飾されていたりする。彼は奴隷20人分の価値に相当する盤を見たことがあるという。盤にある穴はkpo singあるいはkpo kungoといい、kungoは「杯」の意味である。ゲームは大抵シービーン [12] で遊ばれるが、これは西海岸の芋 [13] のような蔓性の植物に成長する。あるいは酋長によって先述の象牙の玉で遊ばれる。これら石はkpo kunjeと呼び、kunjeとは「種」の意味である。王子はガボン製の盤がこのゲームに適していることを発見したが、彼はリベリアの展示場にあるようなより洗練されたものが普通だったと言っていた。ガボン製の盤の真ん中にある凹みは、プレイヤーが意図した通りに穴に落ちない石を受け止めるためのものだ。いかさまは実践されており、これを防止するためにプレイヤーは自分たちの腕を上げて石をやや乱暴に穴に投げ入れなければならない。2人、3人あるいは4人が遊ぶ。ゲームはシリアやエジプトで遊ばれているものとはいくらか異なる。プレイヤーは自分側の穴ならどこからでも始めていい。自分の手番は最初に取り上げた石を蒔いたら終わる。最後の穴にある石の数が2か3に増えていればこれを獲得できる。獲得した穴の反対側の穴からは取らない。2人で遊ぶ時は、それぞれの穴に4つずつ石があるが、3人あるいは4人で遊ぶ時は、それぞれの穴に3つの石を入れる。2人で遊ぶ時は、石をシリア人のゲームと同じ方向に蒔いていくが、3人あるいは4人で遊ぶ時は、どちらの方向に蒔いてもいい。2人で遊ぶ時は、それぞれのプレイヤーは盤の一方に座っているが、3人の時は各列2つ、それぞれ計4つの穴をもち、盤面を横に3つの部分に分割する。4人で遊ぶ時は、それぞれ3つの穴を持つ。2人で遊ぶ時は、そのプレイヤーが「殺した」(fá) 穴だけ獲得するが、3人あるいは4人の時は、一人が自分の手番で穴に2か3個の石にした時、その人はその次の穴から石を取る。あるプレイヤーがそのように隣の穴から石を取ると、その人は自分の手の中で石を指でギュッと握るが、この動作を「にぎり」 (boti) と言う。しかし、これは石のうちの一つがプレイヤー自身の穴からのもので、そのほかの1個あるいは2個の石が対戦相手のものである時にのみ行われる。プレイヤーは地面にあぐらをかいて座り、酋長が大人数で遊ぶ時は、これを見にしばしば集合する。私はモモル王子の説明をいくらか時間をかけて説明し、何人かのアフリカ人の旅行者は、このゲームは白人にとってわかりにくいものであると明言した。

シュヴァインフルト博士は、ヌビア人イスラム教徒がマンカラを彼らの起源である中央アフリカからもたらしたと見ており、ものの再現というのはそれがいかに些末なものであっても、全てのアフリカ諸国の根底にある本質的な一体性の間接的あるいは付随的な証拠の一つであると述べている。ベント氏は、ある形式のゲームはアラブの影響を感じるところならどこでも見つかるとはっきり述べたが、続けて、マショナランド遺跡とアラブ人の影響を結びつける一連の証拠の中で、別の繋がりを形成しているとした。リチャード・アンドリュー博士は、彼の著名な仕事である「人種学的並行」 [AndreeA] の中でこのゲームについて多くの解説を行っているが、彼はこれが西から東へ、アジアから大西洋岸へ広まっていったとしている。この意見は私が共有したものだ。ピーターマンは、マンカラがダマスカスにおいて、メッカからの途上にあるある谷で巡礼者が拾ってきた石を使って遊ばれていると話している。アラビア文学で比較的早期にあったこのゲームの言及から、そしてアフリカでもアラビア語の名前が残っていることから、アラブ人がこのゲームを広めた元であることは明らかであろう。ムハンマドは賭け矢 [14] 、そして危険なゲームを禁止した。遊ばれてはいたのだが、イスラム教徒によって宗教上の禁忌と見做されるようになった。マンカラは、運命のゲームとか計算のゲームとかと言われ、許容されているものとして扱われていて、巡礼者がイスラム世界の各地に戻っていく時にこれを持ち帰ったことで広く拡散したと考えるのは非合理的とは言えない。もしこの伝播法則を認めるならば、今度はこの起源についてという、より難しい疑問を持つことになる。これは、恐縮ながら、直接特定できるものではないし、ちょうど人間の文化の発展の他の面について行っているように、ゲームの発展にある法則についてのより偉大な知識に到達するときのみはっきりとわかることだろう。

私は最近マンからがサンドミンゴ [15] の黒人に一般的な遊戯であることを紹介したが、彼らは地面に掘った穴で遊んでいた。アメリカ国立博物館にある盤(図版5)はセントルシア [16] のF. ガーディナー・ジュニア牧師によって集められたもので、この地ではWa-weeという名前で黒人たちが遊んでいるという [17]

マンカラがいつか我々にも親しみのある遊戯になるかもしれないが、その時には本論文がその歴史についてのいくつかの質問に回答しているかもしれない。

上のようなことを書いたのは、私がマンカラゲームがChubaという名前で、1891年にアメリカでマサチューセッツ州スプリングフィールドにあるミルトンブラッドレーカンパニーによって発売されたことを知ったからだ。この会社は下のようなルールと説明を添付している。

Chubaは、東アフリカで現地人に大いに楽しまれている素朴なゲームの翻案です。彼らは地面に座って砂を掘った穴に貝殻、若いココナッツなどをカウンターとして使って、それを穴から穴に移して遊びます。気晴らしのために文明世界へ今まさに現れたChubaは、2人用のゲームです。4列の各列11個の穴あるいはポケットを持つ盤とカウンタとして使う60個の小さな石からなります。 (図14参照)

fig14

ボードは普通プレイヤーの間に置かれ、プレイヤーの前に長辺が来るようにします。それぞれのプレイヤーが使うのは自分に近い側の2列の穴です。プレイヤーに近い方の列を外列、もう一方と内列とします。

ゲームを始める前に、それぞれのプレイヤーは外列にカウンターを1個ずつ、内列の一番左を除く穴に2個ずつ入れていきます。上の図はゲーム開始時の盤面を示しています。矢印で示したとおり、内列の全ての動作は右から左、外列は左から右に行います。プレイヤーは向かい合っているので、2つの内列の動きは必然的に互い違いの方向になります。最初のゲームの初手の権利は、合意か運に委ねられていて、どのような結果でも構いません。続きのゲームでは、最後の勝負に勝利したプレイヤーが先手を握ります。

最初のプレイヤーは、自分の内列から初手を始められるような2個以上の石を持つ穴を選びます。それからその穴から全ての石を取り出して、その後に続く穴に1個ずつ入れていきます。最後の石が、既に石の入っている穴に入った時、プレイヤーは入れた石を含む全ての石を取り出してまた同じように入れていきます。この動きを、最後の石が空の穴に入るまで続けます。この動きは矢印に従って外列まで、あるいはもっと先まで進められます。

もしこの最後の石が入った空の穴が内列で、対戦相手の相対する内列に1個以上石があるとき、プレイヤーはそれらの石を獲得し、盤から取り除きます。さらに相手の外列にも石が入っていたとき、それらも取り除きます。さらに、そのプレイヤーは相手の列にある穴を1組選択して、それらに入っている石も取らなければなりません。相手のどの穴のペアを選ぶかは自由で、その穴が空でも埋まっていても構いません。添付の図でこのルールの意味について説明します。(図15参照)

fig15

プレイヤーBが最後の石を1番の穴に入れ終わったところだとします。Bは2番と3番にある全ての石を取り、さらに4番と5番、あるいは相手の内外列の2つの穴からも取ります。2番が空だったときは、Bはどの石を取ることもできません。3番が空だったときは、2番から取り、さらに4番と5番からも取ることができます。最後の石が外列、例えば6番に入った時は、何かを獲得する効果は現れません。外列は常に争いに関係しないからです。

外列の石は、内列の石をそこに持ってこない限りは動かすことはできません。

2個以上の石を持つ穴がある場合、プレイヤーは1個だけの石を持つ穴から動かすことはできません。1個だけの石を持つ穴から始めるときは、その石を既に石のある穴に入れることはできません。

プレイヤーの穴にある石が全て1個ずつとなったとき、外列にある残りの石は動かせないものとして相手のものとなります。

相手の全ての石を獲得したプレイヤーが勝者となります。

自分の石を速やかに1個だけにすることは、相手もそうしようとして異なる戦略の方が賢いのでない限りは有効です。

効果的に獲得するために2個か3個の開いた穴を一気に埋めようとしたいとき、空いている穴から十分離れたところから動作を開始することでしばしば行うことができます。

ゲームの序盤から石を失うことは、必然的に大きな不利になる、ということはほとんどのゲームではありません。これは終盤の手によって大きく変わるためで、そこには素晴らしい能力を見せるチャンスがあります。

現地の元々のChubaプレイヤーは手番の終わりに"chee"と言い、相手に手番を進めることを知らせます。そして、ゲームの終わりに向かって、立て続けに手番が続くとき、その効果はとても楽しいものです。

現地人は内列の石のことを「男と妻」といい、外列のものを「やもめ」と言います。しかしやもめたちは内列から石が来ることによって結婚し、ゲームが進行すると全ての石が1個ずつになります。この時は「未亡人」と呼んでいます。未亡人たちは結婚した家族に対して二重の利点があり、彼らに対して大混乱を引き起こすことは確実です。Chubaという語は「失わせる」とか「食い尽くす」という意味があるので、このゲームの名前としてはぴったりです。それにお互いのプレイヤーの目的は、後手の石を逃げることができない位置に置かせることによって相手を全滅させることなのです。

  • [Hyde] Thomas Hyde, De Ludis Orientalibus Libri Duo, Oxonii, E Theatro Sheldoniano, 1694, Vol.2.

  • [Alvarez] Francisco Alvarez, Narrative of Portuguese Embassy to Abyssinia During the Years 1520-1527

  • [Bent] J. Theodore Bent, Robert McNair Wilson Swan, "Ruined Cities of Mashonaland", 1893.

  • [AndreeA] Richard Andree, "Ethnographische Parallen", neue folge, Leipzig, 1889, p. 101.

  • [AndreeB] Richard Andree, "Ethnographische Parallen", neue folge, Leipzig, 1889, p. 102.

  • [Schweinfruth] George Schweinfurth, "Artes Africanae", Leipzig: F. A. Brockhaus, 1875.


1. 訳注:Sultan Abu Bakar Daeng Ibrahimのことか
2. サラバの小作人と話していて、彼の記述では「彼ら原始人は牛糞の完璧な芸術家です。この材料で、彼らは大きな容器を作り、麦を貯蔵したり、飲み物の容器にしたり、万人向けのゲーム盤にしたりします。より上流の人間が木で作るものです。私は、このゲームが長者から農民まで、アビシニア人の間でいかに普遍的なものであるかを示すために、それらのうち1つを持って帰り、それは無傷で大英博物館に届きました。このゲームはGabattaと呼び、上流階級によって作られた木製の盤は18の穴を持ち、お互い9つずつ使います。chachtmaと呼ばれる3つの球がそれぞれの穴にあって、ゲームは受け渡しの連続によって遊ばれ、我々にはとても複雑に見えてルールを学ぶことができませんでした。穴はtonkoulsあるいはhutsと呼ばれていて、彼らはとても楽しんでいるようでした。このゲームは我々がみたマショナランドの黒人によって遊ばれているものとよく似ていて、一般的にアラブの影響が1度でもある国で共通の形として見られます。」("The Sacred City of the Ethiopians," London, 1873, pp. 72-73.)
3. 訳注:現在のザンデ族(Azande)のこと
4. 訳注:おそらく南スーダンのボンゴ族のこと
5. 訳注:現在のナイジェリア連邦共和国べヌエ州
6. 訳注:ガーナ共和国中央州沿岸部にある港湾都市
7. 訳注:赤道ギニアからガボン北部にかけて居住している
8. 収集家のA. C. グッド牧師はこのゲームを次のように説明している。「2人のプレイヤーは盤からそれぞれ相対して座り、12の穴にそれぞれ4つずつ石を入れる。それから、プレイヤーの一方が自分側の列にある穴から石を取り出し、それぞれの穴に一つずつ入れていく。右方向に蒔いていったあと、さらに対戦相手の側に反対方向に、反時計回りに入れていく。一方が最後の石を相手の陣地にある石が1個か2個しか入っていない穴に入れることになるまで、このように交互に石を移動させる。上の条件を満たすと、そのプレイヤーは自分が蒔いた石を含んだ全ての石を獲得する。これをボードの右端にある受け皿に移す。プレイヤーの右端の穴に1個だけ石があるときは、たとえ反対側にある相手の最初の穴に石が1個か2個しかなかったとしても、それを蒔いて石を獲得することはできない。ポケットに12個以上の石が入ったときは、これを蒔くと必ず撒いた石がその穴まで戻ってくることになるので、その穴を飛ばして石を蒔く。獲得できる石がもうないとされるくらい盤上に石が少なくなったら、ゲームは終了して、盤上の石はお互いの得点にはならない。このゲームは変わることがある。上述のように石を獲得するとき、獲得する穴の中の石だけでなく、その穴の前にある、石を蒔く前に1個か2個の石が入っている穴からも、空の穴か3個以上の石を持つ穴に到達するまで獲得できる。この最後のルールは、他の2つのものより良いものだ。ファン族はこのゲームをあまりうまく遊べていない。彼らはどこに最後の石が落ちるのか数えることができないようだ。白人は、このゲームを理解するやいなや彼らを毎回負かせてしまうだろう。」
9. 訳注:タンザニアのキリマンジャロ周辺に居住するバントゥー系民族
10. 訳注:マメ科ジャケツイバラ属の低木になる種子
11. 訳注:現在のヴァイ族(Vai tribe)、リベリアを中心に居住する
12. 訳注:海岸から漂着してきたマメの種子。あるいはマメ科のワニグチモダマの種子
13. 訳注:おそらくアメリカホドのようなマメ科のイモのことか
14. 訳注:原著ではthe Meiser game。マイスィルといい、羽のない矢でラクダの肉を賭けていた。クルアーン第2章219節および第5章90節で賭け矢を益より罪が勝るものとして言及している
15. 現在のドミニカ共和国サントドミンゴ
16. 訳注:カリブ海にある島嶼国家
17. ガーディナー氏がG. ブラウン・グッド博士に宛てた1895年5月2日付けの手紙の中で「Wa-weeというゲームをセントルシアで購入しましたが、私はこれをバルバドスやマルティニークの黒人も使っていることを発見しました。確かめられた限りでは、彼らはこれをかなり古い-先祖代々のものと考えているようです。私が思うにアフリカからもたらされたのでしょうが、それについて誰も知っている人がいませんでした。普通の賭けごとのようです。」遊び方については、「覚えている限りでは、側面にある小さい穴に石を入れていて、それぞれのプレイヤーがそれらをゴールとして一方にある大きな穴に入れていきます。石はある穴空手で取り上げられて円を描くようにして特定の順番で他の穴に入れていきます。最後の石が、特定の数だけ石が入っている穴に落ちると (数は覚えていません)、その人はその穴から石を取り去ります。目的は多くの石を自分の物として対戦相手からとって端の穴に入れていくことです。」

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